旅 順
 
子供の頃見た映画「二百三高地」で衝撃を受けた地「旅順」


ようやく最近外国人にも立入りが開放されたのだが、
軍港である旅順港一帯はまだ外国人禁止エリアである。
それで、黙っていればばれないからと中国人のツアーに
紛れ込んだ。でも見つかれば1万元の罰金らしい。
まずは港を一望できる灯台のような塔のある白玉山へ。

天然の良港であることがよく分かる。
唯一海に開いている旅順港口

大型船が航行可能な湾口の幅は狭く、
ここを塞がれると天然の良港も袋の鼠である。
そこで開戦劈頭、海軍は老朽船を沈めて
湾口を塞ぐ閉塞作戦を行ったが失敗する。
バルチック艦隊の到着を待って港内に立て籠もる
ロシア太平洋艦隊の誘き出しに失敗した海軍は、
陸軍に旅順の攻略を要請する。

しかしロシア軍は周囲の山をとんでもない要塞にしていた。

港の背後に広がる旅順の旧市街地





どうやらデジカメが珍しかったらしく土産屋のおばさんが
何やら話しかけてきた。見せびらかして自慢してたら、
日本人とバレて大騒ぎになった。ヤバイ逃げろ!
そそくさとバスの中に隠れてなんとか事なきを得たが、
窓の外を見ると公安が数人来て騒然としていた。
(もう少し写真撮りたかったのに残念!)




水師営に向かう途中でバスから撮った旅順港の様子

中国の軍艦が停泊していた。
水師営会見所

1905年1月5日第3軍司令官乃木将軍と旅順要塞司令官
ステッセル将軍が会見を行った場所。
水師営での会見の
四日後に旅順要塞のロシア軍は公式に降伏する。
両軍の将軍が会見を行った一民家(近年復元)。

当時周囲は砲弾で跡形もなくなっていたが、この建物は
野戦病院として使われていたため残っていたらしい。
中に入ってみる

向かって右側が日本軍控え室、
左側が会見室(兼ロシア軍控え室)

会見室

会見時に使われたテーブル(レプリカ)がおかれていた。
壁には乃木将軍とステッセル将軍を中心に、
会見に臨んだ面々の写真が飾られている。
会見テーブルの上には何やら日本語の文字が。

(本物は東京赤坂の乃木邸にあるらしい)

唱歌「水師営の会見」に歌われた棗の木
203高地:映画「二百三高地」の舞台の熾烈な戦場跡

日本軍は頂上のロシア側堡塁に壮烈な突撃を繰り返した。
206mの山が203mになったとも言われるほど夥しい砲撃と
塹壕の構築でズタズタだった山腹も、日露戦争終結後に
植林されて、今では緑豊かな丘に変わっている。
1904年9月19日から第三軍の第一(東京)・第七(旭川)の
各師団は合計四回の総攻撃を行い、
12月5日に制高点を占領。

203高地の攻防戦だけで、死傷者は日本側1万2千人、
ロシア側5千人を数えた。
遥か遠くに旅順港が見える!


壮絶な戦いの末、日本軍は甚大な代償を払って
この景色を手に入れた。

すぐに日本軍はここに観測所を設置して、旅順港内に
引き籠もるロシア艦隊を砲撃し、その殆どを撃沈した。
慰霊碑


山頂にあるこの碑は、乃木将軍により砲弾の破片を
溶かして作られた。

中央の文字:爾霊山は「203」に通じているそうだ。
日本軍の攻め登ってきた方向
海鼠山(南山坡山))、赤坂山(老虎溝山)の展望

面々と続く山々の頂には機関銃や大砲の堡塁が築かれ、
日本軍の前進を悉く阻んだ。
ロシア軍の塹壕跡

観光客用に最近掘られたと思われるとても真新しい
一目で偽物と分る塹壕も多くあった。
日本軍の掘った塹壕跡

今では樹木に覆われて静かな眠りについている。
(できればこのまま余計な手を加えないでいて欲しい)

乃木将軍の次男である保典氏が戦死した場所の碑


旅順要塞の攻略戦は日本軍の投入兵力約15万人、
死傷者は6万人(うち戦死者1万5千人)という
筆舌に尽くしがたい壮絶な戦いだった。

思わず手を合わせて拝みました。

我々の今日の繁栄は、遠い昔の尊い犠牲の上に
築かれていることを決して忘れてはいけないだろう。


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