オーストリアの首都であり、この国最大の都市。人口約161万人(1999年)。ドナウ川に沿って発達した2000年の歴史をもつ古都で、長らくヨーロッパおよび世界の政治と文化の中心地の一つであった。この中心地としての役割は第二次世界大戦後における国際政治状況の変化により薄らいだが、今なお国際会議の開催地として、また音楽の都として、ヨーロッパの代表的な都市の一つとなっている。ウィーンには1世紀末にローマ帝国の北方に対する守備隊の司令部と兵営が設けられた。都市としての発展は、バーベンベルク家の居住地となって1156年に公領に昇格したときに始まる。1282年以降ハプスブルク家の支配下にあり、1533年にハプスブルク帝国の首都となって、以後400年にわたり、ヨーロッパの大国の政治、経済、文化の中心の役割を果たすことになった。二度にわたるトルコ軍の進攻によって傷ついた市街は、ハプスブルク家によって再建され、現在の都市の基礎がつくられた。第一次世界大戦の敗戦に伴うハプスブルク帝国の解体によって東・中欧を失ったオーストリアは、ドイツとの合邦をも拒まれ、経済的、政治的危機は深刻であった。ヒトラーは38年ドイツ・オーストリア合邦を強行して翌39年には第二次大戦に突入する。大戦末期、ウィーンは1週間にわたるソ連軍の攻囲のあと45年4月終戦をむかえ、社会民主党のカール・レンナーを大統領とする新生オーストリアの首都となった。米英仏ソの四国管理のもとにあったが、米ソ雪どけのなかで、55年5月ようやく独立を回復するとともに、ベルベデーレ宮における講和条約の調印は、永世中立の世界への公的宣言となった。同年10月、中立は憲法に織り込まれ、12月には国連にも加盟した。ウィーンは戦後の世界にも平和のための舞台を提供することとなり、61年にはケネディ‐フルシチョフ会談の舞台となってキューバ危機回避につながった。 ウィーンは長い歴史を貫いて、東西二つの世界、さらには南北の対立する世界を橋渡しする役割を果たしている。
〔小学館『スーパー・ニッポニカ』より抜粋、一部修正〕
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