PRAHA

プラハ:チェコ共和国の首都。人口120万人(2000年)。紀元前5世紀ごろからケルト系のボイイ人がこの地域に居住していたが、6世紀ごろには西スラブ人が定住した。8〜9世紀にはプラハ城の基礎がつくられ、南方に城砦(じょうさい)ビシェフラトが築かれた。10世紀に出たチェコ人の民族王朝プシェミスル家は国家の中心をプラハに置き、キリスト教の普及に努め、973年には司教座を置いた。ドイツ人、ラテン民族、ユダヤ人商人によって西欧と東欧の通商路となり、14世紀にはヨーロッパの経済、政治、文化の中心地に発展して人口は4万人を数えた。ことに、1346年ボヘミア(チェコ)王となったルクセンブルク家のカレル1世(神聖ローマ=ドイツ皇帝カール4世)はプラハを神聖ローマ帝国の首都と定め、中欧最初の大学(プラハ大学)を建て(1348)、ペトラルカなどのイタリア・ルネサンスの文人を招き、中欧のルネサンスを招来した。さらに大司教座を置き、新しい市街区を設けるなど、今日のプラハの基礎をつくった。1618年に始まる三十年戦争はプラハで勃発した。ボヘミアの封建貴族はオーストリア・ハプスブルク家の中央集権化に反対し、新国王にプファルツ伯を擁して挙兵したが、プラハ近郊のビーラー・ホラの戦いでたちまち敗れハプスブルク帝国の支配下に入る。三十年戦争期間中、この町は各国の軍隊に蹂躙(じゅうりん)されるところとなり、政治的重要性を失い、17世紀なかば以降はドイツ化された一地方都市に衰微した。18世紀に入るとハプスブルク家の経済政策のもとで活況を呈し、マニュファクチュアがおこり、人口は8万に達した。19世紀にはスラブ民族運動の中心の一つになり、1848年革命期にはスラブ民族会議が開かれた。当時住民の3分の2はドイツ人であったが、19世紀後半はオーストリア帝国内でもっとも工業の発達した都市の一つであり、民族資本の力を背景にチェコ人市民層も徐々に勢力を増すとともに、労働運動、反ドイツ民族運動の中心となった。1918年10月28日、この地でチェコスロバキア共和国の創立が宣言され、首都となった。39年にプラハはドイツ軍によって占領され、45年に旧ソ連軍に解放されるまで続いた。68年にいわゆる「プラハの春」という自由化運動がこの地から生まれた。その後、69年に成立したチェコスロバキア社会主義連邦共和国内のチェコ社会主義共和国の首都として再出発した。89年に「東欧革命」が勃発し、脱社会主義体制化が図られたが、政治変革を推進する大衆運動はまずプラハで組織・拡大され、各地に波及した。93年1月1日にチェコとスロバキアが分離・独立を果たし、2国が誕生した結果、チェコ共和国の首都となった。
〔小学館『スーパー・ニッポニカ』より抜粋、一部修正〕


タワープラハからの眺め


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タワープラハ
1992年完成 高さ216m




プラハ本駅

ヴァーツラフ広場(大通り)

国立博物館

ヴァーツラフ広場から旧市街広場へ通じる道

旧市庁舎(左)とティーン教会(右)

旧市庁舎下の天文時計

聖ミクラーシュ教会

ヴルタヴァ川の向こうに聳えるプラハ城

9世紀に築城されて以来のプラハのシンボル

国民劇場

芸術家の家

ドボルザーク博物館

旧市庁舎の塔に登る

聖ミクラーシュ教会

旧市街地広場

カフェやレストランが多い

ティーン教会

ヴルタヴァ川とカレル橋

「百塔の町」を象徴する尖塔群

1135年創建 高さ80m

15世紀初頭完成 長さ520m

プラハのランドマークでもあるカレル橋

ヴルタヴァ川を行きかう観光船

橋の欄干には30体の聖人像が並び立つ

ヴルタヴァ川の対岸(西岸)へ

ゲートをくぐる

西岸の街並み

ペトシーンの丘の上にある展望塔に登る

プラハ城と赤瓦の街並み

ヴルタヴァ川の両岸に広がる市街

雨上がりで虹が差していた

中世の街並を今も残している

カレル橋方面

列車でプラハを離れる

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