月額480円〜の高速レンタルサーバー ColorfulBox


MUNCHEN

ミュンヘン:ドイツ南東部、バイエルン州の州都。アルプスから北流してドナウ川に注ぐイザール川沿岸に位置する。人口122万5809(1996)。ベルリン、ハンブルクに次ぐ同国第三の大都市。地名は、8世紀に集落の基礎をつくった修道士たちを意味するMunchenに由来する。12世紀ウェルフ家最後のバイエルン大公ハインリヒ獅子(しし)公がここに市場を移し、貨幣鋳造権、関税(とくに塩税)徴収権を得て以来、都市となり、獅子公のあとバイエルンを支配するウィッテルスバハ家の居城地となった(1918年11月まで)。16世紀以来、バイエルン公国の首都として、また商業の中心地として繁栄した。16世紀の宗教改革ではカトリック教会、とくにイエズス会の拠点となる。17世紀の三十年戦争では、スウェーデン国王グスタフ・アドルフに占領された。18世紀のスペイン継承戦争ではオーストリアに占領され、選帝侯はルイ14世の下に逃れたが、このころからミュンヘンはフランスの影響を受け始めたといわれる。1805年ナポレオン1世はミュンヘンに入り、アウステルリッツの勝利後、06年バイエルンの領地を拡大し王国にした。ミュンヘンには大学も誘致され、ドイツだけでなく、ヨーロッパの文化と学問の一つの中心地となった。1848年の三月革命では、ルートウィヒ1世が退位した。その後のノイシュバーンシュタイン城建設で知られるルートウィヒ2世は狂気のため自殺したが、ルートウィヒ1世の治世や鉄道の開通などによって、ミュンヘンは南ドイツ随一の都市に成長した。1918年ドイツ全土に先駆けてミュンヘンに革命が起こり、王政は打倒され、アイスナー政府が成立した。1923年にはヒトラー一揆が起こり、ヒトラーが政権についたドイツ第三帝国の下で、1935年ミュンヘンは「運動の首都」と宣言された。ズデーテン問題に関する1938年9月の英独仏伊の四国協定はここで調印された。第二次大戦ではミュンヘンの半分が破壊され、戦後はアメリカ軍の占領下に置かれた。1947年6月バイエルン州首相エアハルトの提唱による全ドイツ州首相会議がミュンヘンで開かれたが、議題をめぐって交渉は決裂し、やがてドイツは分裂した。
ミュンヘンの繁栄は、長い間商業によって維持されてきた。中世は、とくに塩の交易によるところが大きかった。19世紀中ごろの鉄道の開通後は、南ドイツ最大の穀物、木材、果物、野菜の集散地となった。工業は、19世紀初頭にわずかの手工業しかみられなかったが、19世紀後半から発展し、現在ではバイエルン最大の工業都市となった。エレクトロニクス、光学、電気機械、精密機械、自動車などの近代工業ばかりでなく、ビール醸造、工芸や出版、印刷といった伝統工業も盛んである。第二次世界大戦後の人口急増によって住宅不足が深刻となり、南郊や北郊にいくつかの大規模な住宅地区が建設されてきた。市街地は、建物の老朽化、交通の混雑、駐車場不足といった大都市共通の悩みを抱え、その再開発に力が入れられている。1972年にオリンピックが開かれ、それを機に地下鉄が開通した。
〔小学館『スーパー・ニッポニカ』より抜粋、一部加筆修正〕




オリンピックタワーからの眺望


オリンピックタワー
完成:1968年
高さ:289.5m



BMW博物館

10年かけて世界を一周したバイク

オリンピック公園

1972年に開催されたオリンピック会場跡

ノイハウザー通り

歩行者天国になっている

新市庁舎

マリエン広場

背後にフラウエン教会

デパートやレストランが軒を連ねる

フラウエン教会

夜のノイハウザー通り

皆が触るので鼻が光るイノシシ

ライトアップされたフラウエン教会

ノイハウザー通りを中央駅まで歩く

カールス門

カールス広場

駅が見えてきた

ミュンヘン中央駅

Next
Index