HUMBURG

ハンブルク:ドイツ北部にある同国最大の港湾都市。ベルリンに次ぐ同国第二の大都市で、人口167万5200(1992)。それ自体で一州を構成する。北海に流入するエルベ川の河口から約100キロメートル上流に位置し、その中州を縦横に掘削して港湾・工業地区が建設された。国内とスカンジナビア方面を結ぶアウトバーンが市内を通り、市域北部にフールスビュッテル空港がある。825年ごろ築かれた城塞からおこり、834年ここの教会に大司教座が置かれ、北欧キリスト教化の基地となった。バイキングやウェンド人の攻撃と略奪にあったが、11世紀に教父アダルベルトのもとで教化事業が進んだ。12世紀に領主シャウエンブルク伯はこの地の経済的重要性を認めて商人を計画的に定住させ、新市を建設した。1189年、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世がエルベ川下流域における商業、関税、航行の特権を与えた特許状は、商都ハンブルクの誕生文書となった。13世紀初めに一時デンマーク領になったが、その後目覚ましく発展し、多くの教会や市庁舎が建ち、市壁外に養老院が建てられた。14世紀にはハンザ同盟の東西貿易の中継地となり、バルト海域の毛皮、蝋、穀物、鉱物を西へ船積みし、西からの毛織物、香料、奢侈品をリューベックへ運んだ。市内ではビール醸造が盛んで、都市法はバルト海諸都市の母法となり、ドイツ最古の海事法が制定された。中世末にはハンザ第一の都市となった。16世紀に大きな混乱なく宗教改革を達成したが、このころには快速の単檣(1本マスト)船がズント(エアスン海峡)を通ってバルト海へ、あるいはフランス、スペインへ直行し、1558年船員組合が一致して取引所を設立した。商人層は自治と独自の発展を求め、イギリス産毛織物の輸入港となり、オランダから迫害に追われた新教徒の亡命者を受け入れた。彼らはアントワープの商業を伝え、国際的港都への発展に貢献した。17世紀は帝国都市ハンブルクの黄金時代である。1616〜25年の間に四つの門と多数の稜堡を備えた城壁を築いて防備を固める一方、19年にアムステルダムに倣って振替と為替を営むハンブルク銀行を設立し、62年にコンボイ(警備艦隊)の制度を始め、65年に商業会議所を設立、76年に火災保険業務が開始された。フランス革命期にアムステルダムにかわって北欧第一の貿易港となったが、1806年フランス軍に占領され、10年フランス領に編入された。フランスに対するドイツ解放戦争(1812〜15)後は自由都市としてドイツ連邦の一員となり、中南米、アフリカ、東アジア貿易が栄え、北欧への中継港となった。1847年ハンブルク・アメリカ海運会社が設立され、港も拡張された。1871年ドイツ帝国に、88年関税同盟に加入。市民文化も栄え、18世紀にはテレマン、レッシングが活躍し、19世紀にはメンデルスゾーン、ブラームスが生まれ、ハイネも一時期を送った。第二次世界大戦中の1943年夏には爆撃で大きな被害を受けた。戦後、おもな後背地であったエルベ川沿いの地域が旧東ドイツ領として切り離されたため、一時オランダのロッテルダムや国内のウィルヘルムスハーフェン、ブレーメンなどとの競争に不利な条件にあった。それでもチェコは当時からこの港を利用してきたし、1990年のドイツ統一後は、世界の約1100の港と、260航路の定期航路で結ばれる重要港として発展している。〔小学館『スーパー・ニッポニカ』より抜粋、一部加筆修正〕



聖ミヒャエル教会展望台からの眺望


聖ミヒャエル教会
完成:1761年
高さ:132m



快適な夜行列車にて到着

ハンブルク中央駅構内

ハンブルク中央駅

市庁舎

市庁舎前広場



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