長崎への旅

2011年初春

近鉄にて飛鳥(明日香村)へ
駅近くのレンタサイクル屋で自転車を借りて史跡巡り 今は長閑な田園地帯を自転車で回遊した

長崎への旅
高松塚壁画館
館内の展示
古墳内の石槨復元模型
石槨内の壁画の復元画(本物は国宝)
壁画館のすぐ上に高松塚古墳がある
あいにくの雨に加えて周囲の散策路が工事中だった
高松塚古墳周辺の田園風景


高松塚古墳と谷を挟んで隣接する中尾山古墳

長崎への旅
国営飛鳥歴史公園の施設(飛鳥歴史公園館)内にある飛鳥時代の都を解説した展示
現在の田園地帯にはかつて巨大な伽藍が軒を連ねていた 丘の展望台に上って古代の都市計画を展望したくなってくる


大和三山(畝傍・耳成・天香具山)の美しい
幾何学的な配置に神秘と古代のロマンを感じた

長崎への旅
飛鳥歴史公園の近くに静かに佇む 壬申の乱に勝利した天武天皇は中大兄皇子(天智天皇)の弟
持統天皇は天武天皇の奥さん 天武・持統の治世下で白鳳文化が花開いた
天武・持統天皇陵の上から見た周囲の風景

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田畑の中に忽然と現れる巨石「鬼の雪隠(トイレ)」
恐らく古墳の石室の一部ではないかと云われている
鬼の俎(まな板) これも古墳の床石と考えられている
亀石 大雨になったのでこの近くで暫く雨宿りした
石舞台(蘇我馬子の墓と伝えられる) マラ石

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↑柿本人麻呂が妻を亡くして詠んだ歌

←「聖徳太子御誕生地」の石碑
橘寺は聖徳太子が生まれたとされるお寺である
畑の中にひっそり建つこの寺も昔は大阪の四天王寺の様な五重塔を擁する巨大寺院であったらしい
その後何度も火災に遭って創建時のものは礎石以外は何も残っていない
現在のものは江戸時代末期再建といわれている 赤枠が昔の伽藍配置
本堂(太子堂)には聖徳太子の像(重文)を本尊として祀っている
空を駆ける太子の愛馬「黒駒」 聖徳太子が作ったと伝わる「阿字池」と「三光石」
人の心の善悪を表現している「二面石」 法隆寺の「玉虫厨子」も当初は橘寺にあったとされる

長崎への旅
旧飛鳥京の南側に位置するのが祝戸地区 かつて絢爛豪華な宮殿が建てられていた
西展望台から大和三山を背景とした飛鳥京址を眺める 真正面の耳成山と香具山の間にあるのが甘樫丘
東展望台からの眺め 奥飛鳥方面の見事な棚田風景
雨があがって霞がたなびく山間を遠くに眺めながら悠久の時間の流れを夢想する

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大原神社:中大兄皇子を助けて大化の改新を成し遂げた藤原鎌足(中臣鎌子)の誕生地
鎌足は1000年以上も繁栄した藤原氏の祖であり明治期まで隣に藤原寺が建っていたそうである
藤原鎌足の母である大伴夫人の墓といわれる円墳
飛鳥坐神社 飛鳥社周辺の街並み

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飛鳥寺(法興寺)は596年に蘇我氏により創建された日本最初のお寺
たび重なる焼亡により中世以降荒廃していたが江戸時代に再建されて現在に至る
創建時から唯一現存する本尊の飛鳥大仏は日本最古の仏像
創建時は五重塔を中心に三方に金堂を配し外側に回廊をめぐらした壮大な伽藍を有していた
発掘調査により現本堂が創建時の中金堂の位置にあって大仏が約1400年間同じ場所に坐していることが判った
解説によると現在の規模は1/20に縮小されたとある 甘樫丘を背景とする蘇我入鹿の「首塚」
蘇我入鹿の「首塚」から飛鳥寺を見る
飛鳥寺周辺の長閑な風景

長崎への旅
最後に甘樫丘に登って上から藤原京跡を眺めた 展望台の眼前には雄大な奈良盆地が広がっている
かつてこの景色のほぼ全域に朱雀大路を南北のメインストリートとする藤原京の威容が展開していたのだ
↑の写真の範囲を絵図に書き込んでみる



甘樫丘は大化の改新の舞台となった場所で
中腹には蘇我氏の大邸宅があったらしい
(※図中の耳鳴山→耳成山)
上の写真より少し東側 さらに南東側の祝戸地区方面
川原展望台にも行ってみる 再び陽射しが戻ってきた
古代人たちはきっとここから遠く海の向こうの世界までをも展望していたのだろう
古代まほろばの地を堪能できた一日だった 飛鳥駅に戻ると帰りの切符を失くしていて少し落ち込んだ


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