現在のベルリンおよびその周辺の地域には、民族移動期以後スラブ民族のウェンド人が定住していたが、1160年ごろ神聖ローマ帝国の名門アスカニエル伯家のブランデンブルク辺境伯アルブレヒト熊伯によってこの地のウェンド人の平定とドイツ人の入植が開始された。交通の要路シュプレー川の川中島に商人の基地がつくられ、この集落が1230年ごろ都市権を得てケルンとよばれた。続いてその右岸にベルリンが建設された。史料に最初に現れるのはケルンが1237年、ベルリンが1244年。この2市が後の大都市ベルリンの基礎となった。水車の堰堤によってつながっていたベルリン、ケルン両市は、辺境伯の保護と交通・商業上の地の利を得て急速に発展し、なお1307年には共通の市参事会のもとでベルリン・ケルン市として行政上一つに結合されることになった。1320年にアスカニエル家が断絶、以後1世紀にわたって辺境伯の権力が弱体化するが、その間ベルリン・ケルン連合市は自治都市として自力で発展、14世紀中葉にはハンザ都市同盟にも加盟し、またブランデンブルクの中心都市として領邦議会の開催地ともなった。しかし1415年ホーエンツォレルン家のフリードリヒがブランデンブルク辺境伯に任ぜられて以後、君主権力との力関係が逆転、次代のフリードリヒ2世のもとでベルリンとケルンは自治都市としての特権を奪われ、またふたたび分離されて君主の行政下に入ることになった。それ以後商業都市としての両市の地位は低下するが、反面ケルン北部にホーエンツォレルン家の居城が造営されたことにより、両市はこののち王宮・官庁都市として発展することになる。1539年には宗教改革が行われて新教の都市となった。三十年戦争中両市は多大の被害を被るが、大選帝侯フリードリヒ・ウィルヘルムのもとで両市の発展に新たな基礎が置かれた。ベルリン・ケルンを囲む共通の城壁が建設され、それはシュプレー川左岸の第三の都市フリードリヒスウェルダーをも囲み込んだ。同じころ左岸城外に第四の都市ドロテーンシュタット、第五の都市フリードリヒシュタットが成立している。フリードリヒスウェルダーおよびドロテーンシュタットにはフランスから多数の新教徒(ユグノー)が移り住み、彼らはベルリンの商工業の発展に多大の貢献をした。またオーデル川とシュプレー川を連結する運河の建設によって、ベルリンはハンブルクとブレスラウを結ぶ商業水路の重要な拠点都市となった。そして1701年最初のプロイセン国王となった次代のフリードリヒ1世のもとで、1709年、ベルリン、ケルン両市に上記新興の3市を加えた5市が統合されて、ここにプロイセン王国の首都ベルリンが成立した。18世紀にベルリンはフリードリヒ・ウィルヘルム1世とフリードリヒ2世のもとでヨーロッパの主要都市の一つに発展する。軍隊が国の根幹をなしたプロイセンの首都として、軍隊色の強い都市であった。1725年に住民6万中軍人1万2000で、5人に1人は軍人だったのである。他方、国王の重商主義的産業振興策により、ベルリンには木綿および絹織物業が栄え、また1763年設立の国営陶磁器工場も経済的に重要な役割を果たした。この間市街も整備され、1647年大選帝侯によって開かれた大通りウンター・デン・リンデンの両側には、武器庫、皇太子宮殿、皇女宮殿、王立歌劇場、王立図書館などが建ち並んで威容を誇った。1806年プロイセンがフランスに敗れたのち、ベルリンは2年間フランス軍の占領下に入るが、プロイセン国家立て直しのために断行されたプロイセン改革は、ベルリンにも新たな生命を吹き込んだ。都市条令(1808)によって、ベルリン市民は市議会と参事会の制度に基づく自治の権利を得た。ベルリン大学の創設(1810)は文化都市としてのベルリンの地位を高めるものであった。ツンフト(同職ギルド)の廃止や国内関税の廃止はベルリンの商工業に活気を与え、19世紀のベルリンは既製服、家具、機械、また電気機械などの分野における重要な工業都市としても発展した。この地に創立された企業としてボルジヒ、ジーメンス、AEGなどがある。1838年にベルリン―ポツダム間に鉄道が開設されて以後、ベルリンは北ドイツ鉄道網の中心の地位を占めた。他方ベルリンの工業化はこの地にプロレタリアート層を生み出し、その社会問題と市民の政治運動が結び付いて、48年3月にはベルリンで革命が起こった。3月18〜19日の市街戦では市民側が勝利し、5月プロイセン国民議会がベルリンに招集されて憲法を審議したが、秋には反動勢力が台頭し、革命は実を結ぶことなく終わった。1871年ドイツ帝国の成立とともに、ベルリンは新帝国の首都となる。ウィルヘルム通りは帝国官庁街の別称となり、ティアガルテン南辺には各国大使館が建ち並ぶ外交官街が出現した。富裕な市民は西部郊外に邸宅を構えたが、他方東部・北部郊外には非衛生的な裏長屋が密集した労働者街がつくられた。1900年に270万のベルリンの住民中約半数は裏長屋の住民であった。ベルリンは社会主義運動の中心地となり、第一次世界大戦の敗戦後1918年11月にはふたたび革命の舞台となったが、勝利者として残ったのは、急進派を徹底的に弾圧した社会民主党政府であった。1920年、ベルリンは周辺の7市、59村、29騎士農場をあわせて面積8万7810ヘクタールの「大ベルリン」となった。ドイツが政治的、経済的に危機にさらされた1920年代に、ベルリンは文化面で「黄金の20年代」を謳歌した。この時代ベルリンは、音楽、演劇、絵画、文学において、また映画やキャバレーといった大衆文化においても世界をリードしたのである。しかしこれも1933年ヒトラーの権力掌握によるドイツ第三帝国の誕生とともに終わる。ベルリンは36年のオリンピック・ベルリン大会で世界の人々の目をひきつけ、37年には都市建設700年祭を祝い、43年に人口は史上最高の448万9700に達したが、第二次世界大戦中の空襲と戦争末期45年4月23日から5月2日までの激烈な市街戦によって、中心市街は廃墟と化した。全市の家屋の20%が破壊され、50%が損傷を受け、人口は280万に減少した。戦後ベルリンは連合国の共同管理下に置かれ、ドイツ全体と同様にアメリカ、イギリス、フランス、旧ソ連の4占領地区に分けられて分割統治されることになったが、連合国管理理事会のもとで統一的市参事会は存在し、市議会選挙も行われた。しかし東西対立の激化により、連合国の共同管理は1948年6月以降機能を停止し、ソ連によるベルリン封鎖(48年6月〜49年5月)のなかで、当初ソ連地区に置かれた市議会と参事会は48年9月西側地区に移り、他方同年11月にはソ連地区に独自の参事会がつくられてベルリンの市政は東西に分裂する。49年ドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立に伴い、西ベルリンは条件付きで連邦共和国に組み込まれ、東ベルリンは民主共和国の首都となった。1990年東西ドイツの統一により、ベルリンはドイツ連邦共和国の首都となった。〔小学館『スーパー・ニッポニカ』より抜粋、一部加筆修正〕
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